Papers and Abstracts

論文・講演抄録

産科医の出生前診断の経験からみたPGS

室月 淳

2017年度 年次大会-講演抄録Symposium –PGS を考える–

学会講師:室月 淳

Abstract

子どもをもつ権利(女性の妊娠出産についての自己決定権)を擁護し,すべての女性が幸せになれるようにと着床前遺伝子スクリーニング(PGS)を推し進める立場にたいし,一部では「命の選別」であるという批判や,男女の産み分けや遺伝子操作によるエンハンスメントに発展する可能性にたいする危惧が根強くのこっている.
わたしはPGSについて否定的な立場では決してないが,固定しつつあるPGSの議論の枠組みをのりこえるために,これまでとはちがった視点からの議論を提示したい.

アメリカの社会学者ジェイン・ジェイコブズは「市場の倫理 統治の倫理」で以下のように述べている.
人間が働き生きていくうえで支えとなる倫理と道徳にはふたつの根本的に異なる価値体系があって,それらはまったく矛盾していてしばしば衝突すら起こすにもかかわらず,現実にはそのふたつとも有効であり必要とされている.
そのひとつは「統治の倫理」で,勇敢,忠実,取引をしない,規律遵守,伝統堅持,矜持をもち名誉を貴ぶ,公明正大,公衆への奉仕などが推奨される.
もうひとつは「市場の倫理」で,そこで重要とされる徳は,正直,協力,契約遵守,勤勉や倹約による自己利益の追求,創意工夫や効率,快適さと便利さなどである.
ひとはそのどちらかの倫理と価値体系のモラルにしたがって生きている.深刻な問題が生じるのは,自分自身の倫理体系を固守しないで,どちらかからでもご都合主義で道徳律を選ぶ,つまりふたつの道徳体系を一緒くたに混合する人間が現れたときである.
世の中のほとんどの道徳的腐敗はこれらふたつの倫理体系を混同するところからおこってくる.

日本では医療は前者のシステムに属するものという前提で制度設計がなされている.
国民がだれでも平等に医療を受ける権利を重視し,国民皆保険制のもとに公益性,営利の否定,混合診療の禁止,応召義務といった制限が定められる一方で,医師の業務独占や名称独占資格,一定水準以上の収入など国によって守られている.
すなわち医師は無私であることや公明正大,非営利,公衆への奉仕といった「統治の倫理」の道徳律を尊ばなければならない.
子どもを望む夫婦の希望を尊重してPGSをおこなうのは,協力や契約尊重,快適さや便利さなど,あきらかに「市場の倫理」の道徳律に基づいた行為である.
その契約はあくまでも医師と当事者の夫婦のみで結ばれているため,このとき「統治の倫理」のなかでおこなわれるべき医療が,「市場の倫理」の道徳律を恣意的につまみ食いをしていることになる.

「患者の希望」をすべて尊重することに「統治の倫理」は道徳的にも機能的にも適していないので,そのために医療自体がねじまげられることがある.
医療にとっていちばん基本的となるのはこれらふたつの倫理価値体系をきちんと区別すること,そして「患者の希望」が絶対的ではないことを意識する必要がある.

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